ブランド志向はイクナイニャ

本日は、「ユニット東京スタイル」っていう劇団の『カムイノミ』っていう舞台を観に行ってきましたよ~。以前に先輩から聞いて知った舞台だったので、せっかくだから観てみようかと。幸運にも、今日が公演初日でした(チケット予約してなかったんだけど、なんとか入れてもらえたっぽい…アブネー!!)。
で、感想ですけど、とても面白かったですよ!正直ですね、こういった小さな舞台って「学生の”お遊び”の延長なんじゃないの?」って疑っていたんですよ(失礼ですね…)。だけど全然そんなことはなかったです。脚本も演出もしっかりしていたし、3時間弱もの長丁場にもかかわらず、最後まで魅入ってしまいました。
もちろん正直に言ってしまえば、セリフを噛んだ部分もあったし、殺陣なんかは物足りなさも残ったように感じる。だけど、そういう”なまめかしさ”も舞台ならではの面白さだと思うからさ。いいんじゃないでしょうか?

物語の森へ…

お話の舞台は奈良時代の終わり―。陸奥の山深く、森とともに暮らしてきた民、蝦夷。しかし、彼らには少しずつ大和朝廷の暗い影が忍び寄っていたのでした。幸せな暮らしを守るため、ある者は朝廷のもとでの理想の暮らしを模索し、またある者は古のままの暮らしを守ろうとします。しかし最終的には対立は避けられず、やがて蝦夷の民は非業の結末へと向かうのでした―そんなお話です。
まぁ、太古の日本で実際に起こった、異民族迫害の歴史ということでしょうか。個人的には、征夷大将軍である田村麻呂自身が大陸の出身であり、さらに蝦夷側のリーダーであるアテルイと幼馴染だったという設定が、とても関心のあったところです。ただ、この作品が孕んでいるテーマには、何かかなり深刻な現実的問題があるようにも思いました。
うーん、差別や迫害って難しい問題だよねぇ。他人事じゃないよ。だって今だって在日朝鮮人とか、アイヌの人とかに対して、差別は残っているからねぇ…。差別をなくすのは難しい。もしかしたら無理なのかもしれない。
差別が起こってしまう背景には、私はある種、仕方ない部分もあるようにも思うんだよ(…肯定ではなく、ね)。だって、パッと見て”違い”を認識し、”異物”は拒否しようとするっていう姿勢だけを言えば、それは生き物としてごく自然なんじゃないかと思うんだ。違いを見分けるのはオカシイって言われても、それはどうしようもないことでしょ?極端な話、”自己”と”非自己”を見分けられない生物なんて、生きていけないじゃないか…。
だから問題なのはさぁ、それをそのまま本能的に”行動にうつしちゃう”ことなんじゃないのかなぁ…。例えば、この作品で言ったら、大和が「クサイ!」「人間ジャナイ!」「コノ部屋、ニオウヨッ!」(←違!)とか言って、蝦夷に不当な扱いをするって部分。そりゃあ誰だって、隣の友達に「ねぇねぇ、アンタの足って、超臭くなーい?」って言ったら角が立つでしょ(笑)。そういう配慮というか、気配りに欠ける行いが差別を生みだしている気がする。
不当な差別っていうのは、”共同体の排他性を実力行使する”過ちじゃないのかな。だとすれば、その解決策は、「違う人々を排除すること」でも、逆に「互いの違いを否定すること」でもないと思う。田村麻呂がそうだったように、まずは先入観に捉われることなく交流して、相手も同じ人間であると理解することができれば、差別はなくせるんじゃないのかな。つまりは、“共感”“心馳せ”といった感情でしょうか…それこそが大事なような気がするんだよ。
今回の作品では、大和朝廷は悪意を持って蝦夷に接していました。もちろん、あらゆる国家は差別を生みだしうる強力な内部構造を抱えているのは認める。でも、もしかしたら本質的な性格は蝦夷の部族も同じだったのかもしれないよね。だって、蝦夷は外部との交流を絶ち、アマテラスや大和の国を理解しようとしなかったのだから…。やっぱり、大事なことは「支えあおう」という姿勢だよ。

「みんなちがって、みんないい。」
それでいいじゃないの、いきものだもの。

突然ですが。

ごめん、眠くなってきたwww

にゃーは寝るぞwwwおやすみコポwwwww

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